あなたは、優しすぎる
090:嫌ならこの手を振り払って逃げて、期待などさせないで
街へ着くと喧騒に身を包んでそのままどこかへ行ってしまいそうになる。立場も位置も何もかもがひっくり返った経験があるものとして、誰のものでもない街の喧騒を聞いているのは苦痛ではない。そこにあるのは個人ではなくて人の群れというくくりだと思うからだ。アルヴィンが生い立ちやこれまでを引け目に感じる理由はない。不快ではないという基準さえ守れば群れのなかにとけ込むことができる。アルヴィンは生まれて数年でありとあらゆる物を失った。だからもう一度再構築した。過去も名前も何もかもを捨てて、つくり上げる。人を好きになるのもやめた。クズでもゲスでもなんでも良かった。立場や関係を翻すたびにどうしてという問いが怨嗟に変わるのを茫洋と眺める。刃物を向けられた経験もある。しかもその相手は異性とは限らない。
ふらふらと路地へ紛れようとするアルヴィンの体が止まる。袖を引く丈の小さい少年だ。黒髪が艶やかに輪を描いている。アルヴィンの視点より下に琥珀の眼がある。ジュードだ。戦闘では拳闘するので拳にまとう装備以外に武器はない。琥珀が窺うようにアルヴィンを見据えてくる。問いながら逃げは許さない強さが見えた。
「…どこに、行くの…?」
「んー…自由行動?」
ジュードの唇がわななく。
今しかない。アルヴィンは力任せに布地を引き抜くと路地裏の界隈へ飛び込んだ。複雑に入り組んだ路地裏は開発の手が伸びていないので昔からと新築が入り交じっている。届出が出ていないであろう辻も多く、住人であっても決まったルートしか知らない。輪をかけるのが頻繁な設備工事だ。上下水の設置やある程度の生活維持のための回路がある。住む人間が変わるたびに領域が変わるのでその工事による道塞ぎが回り道を余儀なくさせて、余計に判りづらくしている。まだ高い声で何事か叫ばれても知らぬふりでどんどん歩いて行く。次第に遠くなって消えていった。追跡を諦めたのかもしれないし、ばらばらになるのを避けるための説得に応じたのかもしれない。アルヴィンはちょくちょく抜けだすので必要定員から外れつつある。
背後を振り返る。ついてくるものもいないし気配もしない。悪いかな、と思うが改善する気はない。合流したら謝っておいたほうがいいかも。ジュードはまだ幼いとさえ言えるようで、あれで案外根に持つのだ。次に交渉があったらなんかされるな、という危惧はある。けれど大した心配はしていない。ジュードは幼い悋気を起こすが、真っ当な人間であるから根底を否定するような痛撃は与えない。駄々をこねたり困らせたりする程度に終わるだろうという予見がある。アルヴィンはそのたびごとに変わる道を歩きながら符牒を匂わせる。応えるものがいた。口元だけを釣り上げてついていく。紙幣や通貨はおろか口約束さえかき消える闇に呑まれていく。
「ジュード、くん」
ようやく突き止めた仲間の宿でアルヴィンは割り当ての部屋に滑り込んだ。女性陣に基本的に先に部屋を取らせて、残りを男が割り振る。ジュードはアルヴィンと一緒だとおとなしいのでよく組まされる。ジュードの顔がぱっと上がった。黒髪が翻るのが洋灯の明かりに照る。琥珀が重たく蜂蜜色に輝く。アルヴィンは手土産を見せた。酒というわけにはいかないので露店で求めた菓子だ。泡立てた卵の焼き菓子やチョコレート、砂糖漬けなどを適当に見繕ってきた。甘いモノって大丈夫だっけ? アルヴィンがくれるならね。変な物言いするな。アルヴィンは入ってすぐに部屋を見渡す。諜報活動をしているとそれが通常基準になるから、どうしても盗聴などに身構えてしまう。自分ができるしするから他人もできるだろうという懸念だ。
ジュードはすでに包を開いている。
「ピーチパイは?」
「は?」
「買って来なかったの。好きだって言ってたじゃないか」
「…食いたいの」
好物の話なんかしたっけ。アルヴィンの脳裏で警鐘が鳴る。アルヴィンの警戒を知らぬようにジュードは無邪気に紐を解いては紙袋を開けていく。ドーナツだ。ショコラドーナツ。アルヴィンて本当に甘いもの好きだよね。食いたくないなら食うなよ、俺が食うから。食べるよ。アルヴィンのお詫びでしょ、これ。なんとも言えない顔でジュードを見るアルヴィンに、ジュードはフフンと砂糖まみれの唇で笑った。
目を開ける。視界は黒い。鎧戸の隙間から射す月光が仄白く線を引いている。枕元の洋燈から芯の火が消えた焦げ臭いような匂いがする。燃料も香料が入っているから鼻につくような悪臭はしない。寝台の上で身じろいだ。眠れない夜は初めてではない。もっと悪い環境でも眠れる時は眠れる。アルヴィンは隣にいるはずのジュードを見た。こちらからは見えないので相手からも見えないだろうと思って無遠慮に見据える。ジュードは黒髪だから闇の中では領域をつかみにくい。女性たちのように色が薄かったり金髪などであったりすれば少しは闇の中でも判るのだが。
好きだよ
ジュードの声が木霊す。しばらく前に告白された。僕、アルヴィンの事好きなんだ。好き? 気持ち悪いと思う、と思うけど、その、アルヴィンのことを抱きたいと思うんだ。医学を志していたからある程度人間が持ち得る性癖に対する知識があるのだろう。少数派ではあっても確実に存在する分類だ。理由が解明されたとは聞いていないし、ジュードもそのあたりのことは言い訳しなかった。我慢出来ないんだ、僕はやっぱりアルヴィンが、好きだから。年少者の戯言だと退けるのは易いがそれを躊躇させる強さを帯びた眼だった。
きらり、と琥珀が煌めいた。なに、と思う前に気配が動いた。どさりと毛布ごと体を抑えこまれた。意図してそうなったというより毛布をかぶっているアルヴィンの上に飛び乗ったという方が正しそうだ。毛布を抑えこむことでその下にあるアルヴィンの四肢を封じている。何か言おうとして果たせない。ジュードの顔が見えない。もともと暗い上に、のしかかられているので影になっている。ジュードは枕辺の洋燈を灯そうとはしなかった。
「ねぇアルヴィン」
声はまだ高い。声変わりを迎えていないのかどうなのかは知らないが、まだ少年の域にいるジュードの声は高い。女性の甲高さというより玲瓏とした鈴に似ている。その鈴が、震える。
「アルヴィンは、僕の事…き、らい?」
答えない。好きか嫌いかと問われれば好きだと思うと応えるだろう。だがジュードの言葉は明確に感情の偏りを示せと言っている。アルヴィンは自分がことさら苦労したとは思わないが呑気な連中に捌け口のない憤りを感じるのも確かだ。小遣い稼ぎとして盗み聞きをする連中を見下し、侮蔑していた。生きていくのに必死でそれしかなくて、だから暇つぶしにそれをするのだという連中がアルヴィンは嫌だった。
ジュードの指先がギリギリと食いこむ。それは疼痛というよりどこかやわい侵蝕に似ている。突き抜ける破壊力を匂わせながらもアルヴィンの許可を求めるように控えめだ。それでいて血が滲むほどの強さを見せる。
「…おたく、どうした。おかしいぜ。よく眠れてないんじゃないか。一眠りしたら撤回したくなるぜ」
基本的な前提として同性に肉欲は抱かない。それは割と揺るがないものだ。ただジュードは年若いからそのあたりの認識がかけているのかもしれない。アルヴィンは基本的に来るものは拒まない。拒むほど多い出会いがあるわけでもなかった。必死だった。手順として見返りとしてお前のケツが必要だと言われたら裸になった。情報を得るときもそうだ。貞操に構っていられるほどのんきな立場ではなかった。認めて欲しい人には余計に蔑まれた。血縁であることが余計に輪をかけたのかも知れなかった。だが、アルヴィンは脚を開いた。ぬくもりが欲しかった。
「…いつも、どこ行くの? いつもそうだよ。後をつけていこうって注意するのに、気づいたら自分がどこにいるかも怪しくなってるんだ。いつもギリギリでみんなのもとに戻る。そうしたらアルヴィンはもういなくって、アルヴィンの帰りを待つしかないんだ。ねぇ。いつも、どこに、行くの?」
ジュードの尾行にはアルヴィンも気づいている。だからいつも撒くのだ。目的地とことさら逆の方向へ迂回したり、いらぬ場所へ入り込む。
「………おたくには、関係ない。知らなくていい」
ぎぢり、と首の皮膚が抉られた。じわじわと鮮血が滲む。燃えるようだった。その傷は痛いというより熱い。擦過傷の部類に入るのだろうそれは治りに時間がかかりそうでアルヴィンは倦んだ。傷自体としては浅い傷なら擦過傷より切り傷のほうが治りが早いのだ。切り裂かれた断面が綺麗だからだろう。切り傷が明確にするのは崖のように切り立つ。擦過傷は傷口がグズグズに潰れるから痕が残るし治りも遅い。
「ねぇなんで。なんで、アルヴィンはいつも、僕には関係ないっていう。でもいつもなにか起こるときはアルヴィンがいつの間にかいるんだ。巻き込むのはアルヴィンなのに、アルヴィンはいつも僕には関係ないって言ってどこか行っちゃうんだ!」
それは慟哭に近い。ジュードも話している内容が真っ当でないことくらい気づいている。けれど奔る熱に押されて言葉を繰っている。まるで、なにか話していないとアルヴィンはすぐにでも立ち去るというように。
「…なぁ、ジュード」
月明かりが射した。ぼろぼろっと落涙する琥珀の艶が見えて、薔薇色の頬が見えた。黒髪は墨を流したように静まっている。紅い唇が静かに紡いだ。
「ぼくのこと、きらい?」
「違う」
「だったら、どうして」
いつもなにも。
いつも何も言わずにアルヴィンは!
「アルヴィンは、勝手だよ!」
「わかってる。だから、ジュードが俺のこと嫌いでもいいよ」
弾かれたように琥珀が集束した。見開かれたその目は傷ついたように潤んだ。
「僕が、アルヴィンを、嫌う?」
アルヴィンの紅褐色の目が眇められた。頼むからもうやめて。痛い。誰かに想われるほど価値なんかない。ただの屑なのに。お願いだからもう、俺が好きだなんて、言わない、で。眇める紅褐色をジュードがまっすぐに見つめる。琥珀の双眸はとろりとした力を帯びてアルヴィンを捕まえる。暗さも手伝って鼈甲のように見える。つややかな照りはどこか美味そうだ。
白い指がアルヴィンの唇をなぞる。撫でるそれは柔らかく、アルヴィンの熱の際を撫で上げた。
「僕がアルヴィンを、嫌うわけ無いだろ?」
唇が重なる。見えていないと思うのにジュードは位置を違えない。その強さがアルヴィンの体を縛る。
「好きだよ?」
声が、縛る。囚われている、と思う。悲鳴に潤んだ高い声を揺るがせる気概がアルヴィンにはない。だが失望はさせるだろう。それがアルヴィンという男であり立ち位置である。『アルヴィン』はいつも立場を変えることに対して抵抗はないのだから。
「…ジュード」
だからアルヴィンはことばを綴り音を紡いだ。
「ごめんな」
今、謝っておく。これからの先に俺はお前を裏切るかもしれないから。きっとそうなったら言葉をかわす間さえないのだ。だから、今。言える時に言っておくなんて柄じゃないと判っているけど、言っておきたかった。
「ごめん」
たぶん俺はお前にひどいことをすると思う。だからそれを詫びておきたかった。だから、ごめん。
「………きらい? アルヴィンはこんな僕が、気持ち悪いの? だから…きらい、なの」
「嫌いじゃない。でも、俺は。…今は謝ることしかできないんだ。ごめん」
きらいじゃない。でも応えることはできない。…応えたらいけないんだと、思うから。どうして。アルヴィンは僕が嫌いなの? きらいじゃない。未来に別れるかもしれないから付き合わないの? 簡単に言えば、そうだ。
「別れてもいいから僕のことを好きかどうか、だけ」
「だめだよ」
ジュードは呻いた。それは唸り声というより嗚咽だった。華奢な肩が震えて跳ねる。
「アル、ヴィン…」
泣いている子供を慰めることさえできない。苦しいのか悔しいのか判らない。息が詰まった。ジュードが不自然に繰り返す呼吸のようにアルヴィンの呼気は乱れた。
「…ずるい。アルヴィンは、ずるいよ…!」
返事ができなかった。叱責も何もかも受けるつもりでいたのに堪えさえできない。ずるい、となじられてアルヴィンはまともな返事ができなかった。用意していた言い訳も方便も全部が吹き飛んだ。納得させられると思っていた言葉綴りは木っ端微塵でありあわせの言い訳さえ浮かばなかった。
「ごめん」
それでも、ジュードは好きだった。
嫌われるのが辛いくらいには、ジュードのことが好きだった
「ごめん」
繰り返すアルヴィンの言葉にジュードの嗚咽が返事をした。
《了》